開基道泉は、その昔、比叡山天台山門の高位にあった杉生流勤・杉生法印の系統を引く者で、もと杉生主水といい、1400年代後半に活躍した人物である。主水は、天台山門が寺領百万石を所有していた時、その地方支配を取り扱う33人の代官の頭をしていた。その住いは下坂本泉町にあったが、同時に出張先の高島郡今津村にも屋形を造営して妻子を住まわせ、自分は本宅との間を往復して勤めを果たしていた。この今津の屋形の造営は沼地を埋め立てての大工事で、近隣の住民の協力を得たとのことである。この土地が現在の泉慶寺の境内地である。
1470文明2年4月、主水31歳の時、大津三井寺で本願寺第八世蓮如上人の御親教を蒙って、忽ち浄土真宗に帰依し上人の弟子となった。そして翌1471文明3年4月には、蓮如上人は実如上人とともに今津の主水宅に逗留された。数日後、主水は蓮如上人にお供して、竹生島・塩津を経て越前吉崎まで北国への旅に同行した。折しも吉崎では、御堂建立計画が確定して繁忙となり、主水も多屋の一員となって吉崎浜坂近江町に住んだ。ところが2年後、坂本より重要な要件ができたので帰るように要請されたので、上人の許可を得てお暇した。その折に、絵像阿弥陀仏の御裏書「文明5年3月18日」(直筆)と法名「道泉」更に六次名号と御文章一通を下付された。また実如上人の御文章一巻も頂戴した。
その後、また今津村に来て一宇を建立して「泉慶寺」と名づけた。このとき大供村をはじめ多くの人々が当寺の門徒となった。主水(道泉)は31歳で蓮如上人にお出会いして以来、20年後の1489延徳元年1月9日に終焉した。享年51歳であった。
泉慶寺第十六世 釋 慶厳 記